独立系メディアを読むこと

ある時から、NetflixやAmazon Primeといった「定番」のサブスクリプション・サービスを積極的に解約するようになった。単純にこれらの企業がそんなに好きではないというのが最たる理由だが、もう一つの大きな理由として、別のものに毎月のお金を支払うようになったというのもある。それが、独立系のWEBメディアだ。

今、有料メンバーとなっているのは、404 Media(テック系)、MinnMax(ゲーム系)、Aftermath(ゲーム系)、Mothership(ゲーム系)の4つ。それぞれ500円から1,000円くらいの料金を毎月支払っている。これまで契約していたサブスクを全部解約すると、ちょうどこれくらいの金額になった。

なぜ課金しているのかと言えば、単純に面白いからなのだけど(各サイトの最新のコンテンツを巡回するのは毎日の日課だ)、その境遇をサポートしたいと思ったというのも大きい。前述した4つのメディアは、どれもが大手メディアからの解雇や離脱を経て、「じゃあ自分たちでやろう」と立ち上げられたもので、自分も元々はその読者だった。Vice(経営破綻)、Game Informer(離脱やレイオフ)、Kotaku(離脱やレイオフ)、Polygon(レイオフ)、元々フォローしていたライターが解雇に遭う様子をSNSで見ながら、境遇は違えど同じく元の職場から去らざるを得なかった身として、新たな挑戦を応援したいと思ったのだ。

独立系メディアの魅力は、なんといってもその風通しの良さにある。独立系とは、すなわち「広告中心のビジネスモデルに頼らない」という意味と同義だ。つまり、言いたいことを言うし、言わなくてもいいことも言う。「忖度しない」とかいう退屈な言葉で片付けられる前に、後者が大事なんだ!ということを強調しておこう。

ゲームメディアという看板を掲げつつも、MinnMaxはクルーでカーリングに初挑戦する動画を普通に放り込んでくるし、Aftermathでは端末内広告が導入されたAmazon Echo Showを自力でハックして自分好みのデバイスに作り変える記事が最新ゲームに関する記事と並んで公開されている。

一方で、女性主導のMothershipでは全4回に渡る「SILENT HILLとフェミニズム」に関する読み応えのある重厚な論考が展開され、404 Mediaはプライバシー保護を謳うアプリ「TeleGuard」がちっともプライバシーを守っていないことを暴露し、公開後に開発元にブチギレられている。

ゲームメディアの主力コンテンツといえば、リリース前後のタイミングで公開されるゲームレビューだが、3つのメディアは面白いくらいにそうした記事を出すことなく、それでいて面白がったり引っかかったりしたことを掘り下げている(Aftermathが『Clair Obscur: Expedition 33』が出た頃に「パリィは最高だ」と「パリィは最悪だ」の二つの記事を同時に公開したのは最高だった)。

一方で、ミネアポリスに拠点を構えるMinnMaxは、ICE(米国移民・関税執行局)の活動に黙っていられなくなり、ゲームの話を一切することなく、ICEへの抗議の映像をYouTubeにアップした。

こういう動きを見ていると、ゲームやテクノロジーに限らない「独立系メディア」の魅力をありありと実感させられる。その向こう側に見えてくるのは、好きなものや興味のあることについて、文章や映像を通して巧みに描いて見せる人々が過ごす、生活そのものだ。そこには喜びもあれば、怒りもある。普段メディアを巡回する時に、脳が「情報収集」のモードに切り替わっているのを感じるのに対して、これらのメディアを見ている時は、面白いと思っているブログを読んでいる時のような喜びが感じられる。「シェアしないと」という欲求に駆られることなく、読み終わった時点で大いに満足する。普段、WEBメディアに記事を寄せている身としては、とっても憧れるし、そんな記事をいつか書けるようになりたいなという励みになる。だが、何よりこうした体験が続いてほしくて、今月もお金を払うのだ。

BULLY

Ye fka Kanye Westの新作『BULLY』を聴いた。

前作『VULTURES 2』は控え目に言っても一度聴いただけで、その酷さを周りの友人に話して笑いを取らないとやってられないくらいの代物だったので、その点では大いに改善している。悪名高い「husband」に象徴される「I can fix her」的な見苦しい光景、どういうわけかYouTubeからリッピングした音源が含まれていたり、生成AIを音楽的実験ではなく単なるボーカルの手抜きとして使用するといったプロ意識の欠如、この期に及んで「Bomb」で娘を出すという厚かましさに至るまで、既に限界の向こう側に到達していた愚か者のファンに対する最終通告としては、前作は申し分のない一枚だった。

「なんでまだカニエなんか聴いてるわけ?」と聞かれたら、どう答えるべきなのだろう?

どんな理由を並べたとしても、それを正当化することはできない。長年のファンとして一つ言葉を選ぶのであれば、それは「介護」になるのかもしれない。激動の2010年代を通過する上で、その音楽は大きな支えになった。『My Beautiful Dark Twisted Fantasy』と『Yeezus』の2枚は、今の自分の音楽の好みを間違いなく決定付けているし、2016年にアメリカで観た『The Life of Pablo』ツアーの衝撃は、あれから10年を経た今でも鮮烈に記憶に刻み込まれている。

で、その10年にあったことと言えば、混乱と正当化、怒りと受容、悲しみといったところだろうか。異なる症状であるとはいえ、ADHDに幾度となく振り回されながら何度も人生を棒に振ってきた自分にとって、双極性障害を公言し、その対処に明らかに失敗しているYeの姿を完全に否定することができなかったというのはあるだろう。いつしか、作品を読み取るよりも先に、Ye自身の言動や行動の向こう側にある背景を読み取ろうとするようになっていた。

ここ最近の作品の中では、『BULLY』はまだ聴ける一枚になっている。何か面白いものを作ろうという意思は感じられるし、サンプリングの使い方は初期の3作品を想起させる。醜悪なリリックは鳴りを潜め、巧みなトークボックス使いで高揚感を描き上げたAndré Troutmanは本作のMVPだろう。彼が参加した「ALL THE LOVE」は間違いなく近年の作品群におけるハイライトだ(それでも『808s & Heartbreak』のどの収録曲にも到底及ばないが)。

だが、その全てが、この10年でYeが引き起こして来た混乱の後始末によって台無しになっている。プロダクションはチープで奥行きがなく、辛うじて一つのアイディアを楽曲へと落とし込むことができたくらいのところで止まってしまっている。録音は生々しいといえば聞こえが良いかもしれないが、まったくもって磨き上げられておらず、まるで直前に慌てて収録したものをそのまま採用しているかのようだ。総じて、「あぁ、きっと多くのプロデューサーやスタジオ、エンジニアに断られたのだろう」という経緯が実際の音からもありありと伝わってくる。本作で最も多くクレジットされているSheffmadeは、詳しくは知らないけれど、そんな状態のYeに協力を申し出てくれた数少ない制作プロデューサーの一人なのだろう。で、そんな彼のGeniusのプロフィール画像がジブリ風AI画像なのはどういうことだ?

とはいえ、それ自体は些細な問題だ。本作のムードを決定付けているのは、Ye本人が本作に確信を持っていないように感じられるような「迷い」そのものにある。1曲目を飾る「KING」で、Duke Edwardsのサンプリングで高らかに王の帰還を宣言したにも関わらず、Yeが放つ第一声には説得力が欠けている。その声には力がなく、まるで用意された台本を読んでいるかのようだ。前述した2枚にあったような尊大な佇まいはそこにはなく、それは音自体の弱さとも無縁ではないだろう。まさか、彼のアルバムを聴いていて「退屈だ」と思う日が来るとは思わなかった。

ここに、『BULLY』最大の問題がある。本作ではさまざまな形で過去の作品群の魅力を再現しようと試みており、そのいくつかは実際に効果を発揮していて、彼の音楽を求める人々の欲求をある程度は満たしている。だが、初期の大胆不敵なサンプル使いから2010年代後半の尊大極まりない作品群に至るまで、そうした音楽の源流となっていたのは、Ye自身の根拠のない自信と強大なエゴに(半ば本能的とも言える)音楽的な感性が奇跡的に合致し、多くのクリエイターとともに途方もない試行錯誤を繰り返しながら、その「ヴィジョン」に辿り着くという過程にあった。だからこそ自分は彼の音楽に魅了されたのであって、「それっぽい音楽」がどれほど作られたとしても、説得力が欠けている時点で、同列に並べることはできない。

WSJの奇妙な広告から『BULLY』に至るまで、まるで今のYeは誰かに睡眠薬を打ち込まれ、「ファンが求めるYe」を再現するために、誰かの書いたシナリオを無理やり演じているように見える(実態はともかくとして、まるで映画『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』のブライアン・ウィルソンのようだ)。それが本人の意思か、そうではないのかは知ったことではないが、介護を続ける身として言わせてもらうならば、こんな光景は見たくなかった。

Correctness

「そもそも、この題材について自分ごときが何か言及するということ自体、果たして正しいことなのだろうか?」

こういうことをこの数年くらい、特にメディアに寄稿させていただいたり、ラジオに出演したりする機会を得たことで、よく考えるようになった。

学生時代にブログを書いていた頃は、無邪気にBlack Lives Matterやジェンダー差別といった問題に言及したテキストをよく書いていて、当時はそれが正しいことだと思っていたし、むしろそういうテーマを避けることこそが正しくないことだと考えていた。

メディアで活動するようになってからも、Apex Legendsの多様性を称賛したり、ゲームにおける障碍者支援の取り組みをラジオで紹介したり、女性差別に対する怒りをテーマにした楽曲や、クィア・コミュニティを取り扱った作品を紹介したりしている。つい最近もそういうテーマを含めたテキストを入稿したばかりだ。

だが、筆者はあくまでヘテロセクシュアルの日本人男性であり、ADHDや不安障害を抱えてはいるものの身体的障碍はなく、社会に存在する様々な「バリア」を意識することが極めて少ないまま、生活を続けている。敢えて言うが、「マジョリティ」側の人間として扱われる機会の方が明らかに多いだろう。にも関わらず、「多様性」とか「リプレゼンテーション」とかそういう言葉を並べては、専門家のような顔をして、分かった気になっている(だが、実際には全然分かっていない)何かを語るのだ。

こうした状況に対して、自分自身としては一つの答えに近いような考えを持っている。それは、「当事者の視点を通すべき」ということだ。もっと言えば、自分なんかが書くよりも、例えば、あるクィア・コミュニティをテーマにするのであればそのコミュニティに属している方が、障碍をテーマにしたテキストであれば実際にその障碍を持っている方が語った言葉が、そのままに近い形で掲載されるというのが最もあるべき姿だと思っている。例えば、Cardi BとMegan Thee Stallionの「WAP」のリリックについて男性が批評するというのは端的に言って、間違っているとすら思ってしまう。映画「エターナルズ」がそうしたように、当事者以外の人物が何とか当事者に寄せようとするのではなく、当事者自身がそれを表現する。そうした動きがテキスト側にもあるべきだし、実際にそういう取り組みも進んでいる。

そもそも、マイノリティについてマジョリティがあーだこーだ語ること自体、随分と偉そうな行為だよなという感情がある。黒人の感情に白人が理解を示す、あるいは共感することの滑稽さというのはコメディでよく見るけど、そういう構図が色々なところで溢れ返っている。一切、「GUILTY GEAR」シリーズをプレイしたことが無いようなヘテロが、何故、ブリジットについて一言でも何かを言おうとする?

勿論、「無関心」であるべきではない。マジョリティ側がそういった作品に触れ、そこで今まで知らなかった何かを学ぶ。それを自分の中で咀嚼し、これまでの自らの行動を振り返って反省する。それ自体は極めて大事なことだ。自分自身も、様々な特権を持っていて、その多くにまだ気付いていないことがあって、でも感覚として「これでは良くないのではないか」と思って、マイノリティを描いた作品に触れている。そういう人は決して珍しくないだろう。

だが、何故それをSNSで語る必要がある?何故それを当事者をスルーしてメディアに出す必要がある?完全に正確な理解など出来るはずがない、そこに近づくことは出来たとしても、多くの場合は「当事者」になることはないのに、研究者であるわけでもないのに、何故たったの数時間だけ触れた情報から、何か「価値のあること」を語ろうとする?結局、それは自分の方を向いてもらおうとするための、個人のエゴなのではないのか?そして、そういう行為こそが、マジョリティの特権なのでは無いのか?安易な共感はむしろ単なるノイズになりうるのではないか?本当にやるべきことは、そういう作品の「広告に徹する」ことだけではないのか?勿論、何か問題を感じたら、それを指摘するのはあるべき姿だろう。だが、その問題においても自分自身は果たして「当事者」なのか?

結局、SNSの投稿によって自らの価値が判断される時代において、「正しくない」自分が怖いだけなんじゃないのか?

自分はよく「自分がやっているのは「批評」ではなくて「広告」」と言うけれど、だからこそ本気で「広告」に徹する必要がある。そのためには、自分が作り手を退くのも一つの手段だろう。「何を言うか」ではなく「何を言わないか」、もっと言えば「何を言って何を言わないと考えたか」。そればかりを最近は考えている。

シェアから解放されて音楽を聴きたい

恐らく自分はSNSと致命的に相性が悪く、どうしても何かを書こうとする時に自意識の存在が脳裏をよぎる。

例えばSpotifyでネットサーフィンのように音楽を聴き、「これは良いな」と思ったらSNSでシェアをしようと思う。これは現代における極めて自然な流れだ。先日、電車の中でなんとなく再生したBenny the Butcherの新作『Burden of Proof』は、Jay-ZやKanye Westのようなゼロ年代初期の縦ノリのヒップホップを強く好む自分にとって、「こういうラップ・アルバムを待ってました!」と喝采を送りたくなるほどストイックな作品で、思わず駅を乗り過ごすほどに興奮していた。

で、じゃあこれをシェアしようと思った時に、ふと疑問がよぎる。「別にシェアをする意味など無いのではないか」。

あらゆるものに対して諦めの感情を抱いてしまった自分は、シェアすることが自意識の消費であり、それに対する反応は内輪でしか存在しないことを知っている。長い時間を経て、SNSは内輪ノリでしかない事にすっかり気付いてしまっている。そしてSNSで行うシェアは、その内輪に対するアピールでしかない。「こう見られたい」、「これを聴く人だと思われたい」、「こういう意見を持つ人であることを示したい」。それは、自分が聴いた音楽が良いなと思ったこととは何ひとつ関係が無い。

そう考える事自体、極めて捻くれている。勿論異なるモチベーションで活動している人は沢山いる。だが、少なくとも今の自分は無邪気さを失っている。

「本当に届けたい人」にはSNS上では届かない、どころかむしろそれを遠ざける可能性すらある。というのは数年前に自分がnoteで書いた事だ。その背景には、音楽を語る人の多くが何かしらの”上からの目線”を持っていることに起因する。それはそもそもアーティストが魂を込めて作った音楽を第三者が語る時点で傲慢なのだから、ある意味では当たり前だと言える。そして、明らかに自分は影響力を求めている。自分がシェアした音楽をみんなが聴くことを求めている。誰かを納得させようと試みている。誰かの考えが間違っていると暗に示している。そして、音楽がその手段になるなんてことがあってはならない。

そのジレンマに陥ってから、SNS上で音楽を語る事自体が、そしてそれに知っている人から反応が返ってくる事すらも大きなストレスになっていた。自分にとっての理想が、「全く顔も名前も知らない誰かに届ける」ことなのだから、そう思うのもしょうがないかもしれない。だが、それはそれで極めて傲慢だし失礼だろう。

そしてある時遂に気付く。「音楽について、何も語らないと決めた方が、純粋にその音楽を深く楽しむことが出来る」ということに。”伝えよう”とした時点でそこには自意識が介入する。その自意識が邪魔でしょうがない。自分の中だけで閉じ込めた方が、結果として昔のようにちゃんと音楽をそのまま楽しむことが出来る。これは「語り手」になる可能性を捨てる、シンプルな敗北だ。そして今は、全く書き手としての未来は見えないが、少なくとも昔よりもずっと音楽を楽しむことが出来るようになった。

最果ての地へ

数週間ほど前、一時避難場所としてcodocを選んだ自分は、こんなことを書きました。

学生時代からブログサービスを使って音楽のことを中心に書いてきて、一番最初に書いていたフォレストブログがサービス終了して、しばらくはてなブログで書いてはみたものの、どうもしっくり来なくて、「note」がリリースされた時に「これは良いサービスだ!書きやすい!」と思ってすぐに移行して、今まで6年くらい過ごしてきました。

幸いなことにnote時代は多くの人に見ていただきまして、昨年末からは何とライターとしての活動を始めることが出来るようになりました。なんとか今でも原稿の依頼を頂きながら、月数本のペースで書かせていただいております。

普段書いている記事では海外のポップ・カルチャーを扱うことが多く、必然的に書くテーマの中には差別やメンタルヘルスなどの社会問題を含んだ内容が多かったりします。

【参考】

レディー・ガガ史上最も素直で、ポップで、痛みと愛に満ちたアルバムーー『Chromatica』の構成とともに全容を紐解く(Realsound)

 - Lady Gagaが、自らが抱えるメンタルヘルスの問題と真摯に向き合った一枚についての解説

Beyoncè、J. Cole、Noname……シビアに時代と向き合い“今”を映し出す5曲をピックアップ(Realsound)

 - ジョージ・フロイド氏の事件によって再び巻き起こってしまった”Black Lives Matter”と向き合った楽曲の紹介

【ネタバレあり】『The Last of Us Part 2』の“炎上”から考える、ポリティカル・コレクトネスに向き合うということ

 - PS4用ゲーム『The Last of Us Part 2』を巡る「ポリコレ配慮を批判する意見」について

で、そういう事柄については、書き手の自分としても問題意識を持ちながら書いているわけですが、このような内容を取り上げているにも関わらず、自分のメインとする活動場所がそれに近い問題を抱えているというのは、書き手として居心地の悪さを感じていました。まぁシンプルに不信感というやつです。(それ言い出したらtwitterとかもアレなんですけどね..)

というわけで、とりあえずnoteを脱出し、新たな場所を探すことにしました。

本当は昔から妄想していた、自らのWebサイトを作るところがゴールではあるのですが、一旦はこの場所に引っ越していきたいと思います。(とはいえ、現状ではnoteの方が書きやすいなぁと思ったりしているのも事実なので、もっと良い場所があったらすぐに場所を変えるかもしれませんが..)

あと、この一年の活動を通して、色々違和感を感じる場面も増えまして、実は活動の在り方自体を見直したいな、どう進めようかな..と思っているところでもあったり..。それでtwitterを1ヶ月くらい休んでデジタル・デトックスしてみたりしていたのですよ。結局「リストでTLを見る」方針に切り替えて今はある程度書くようになったのですが。とはいえ、居場所が分からない状態は今も続いています。

というわけで、Wordpressに突入し、ドメインを取って、四苦八苦しながら自分のWEBサイトを作り始めました。

急いで作っていたのでご覧の通り、大変に簡素極まりない仕上がりですが、少しずついい感じにするかもしれないし、しないかもしれないです。必要だと思っていた機能自体は網羅出来ているので。

noteを使うことの魅力としては、それ自体が一つのコミュニティであることが挙げられると思います。ハッシュタグで記事を探したり、他の人の記事のレコメンドに自分の記事を出してくれたり、公式アカウントがオススメしてくれたり。あとは、Smartnewsとかにも流してくれたりと、大して多くのフォロワーがいるわけではないのですが、ただ書くだけでも、ある程度は多くの人に届けることが出来ました。

この場所にはそれがありません。SEO対策とかも自分で頑張るしかないでしょう。どう考えてもデメリットの方が圧倒的に多いと思います。

それでも、やはり自分は何かしらのコミュニティに居続けることが出来ないのだろうなと思います。とはいえ、利便性を求めてまたnoteとかに戻るかもですが、少なくともここは最果ての地なので、自分の好きなように使っていきたい所存です。というわけで、WORKSの方はまとめたので、noteの過去記事を移行していきたいと思います。それでは、宜しくお願い致します。