「そもそも、この題材について自分ごときが何か言及するということ自体、果たして正しいことなのだろうか?」
こういうことをこの数年くらい、特にメディアに寄稿させていただいたり、ラジオに出演したりする機会を得たことで、よく考えるようになった。
学生時代にブログを書いていた頃は、無邪気にBlack Lives Matterやジェンダー差別といった問題に言及したテキストをよく書いていて、当時はそれが正しいことだと思っていたし、むしろそういうテーマを避けることこそが正しくないことだと考えていた。
メディアで活動するようになってからも、Apex Legendsの多様性を称賛したり、ゲームにおける障碍者支援の取り組みをラジオで紹介したり、女性差別に対する怒りをテーマにした楽曲や、クィア・コミュニティを取り扱った作品を紹介したりしている。つい最近もそういうテーマを含めたテキストを入稿したばかりだ。
だが、筆者はあくまでヘテロセクシュアルの日本人男性であり、ADHDや不安障害を抱えてはいるものの身体的障碍はなく、社会に存在する様々な「バリア」を意識することが極めて少ないまま、生活を続けている。敢えて言うが、「マジョリティ」側の人間として扱われる機会の方が明らかに多いだろう。にも関わらず、「多様性」とか「リプレゼンテーション」とかそういう言葉を並べては、専門家のような顔をして、分かった気になっている(だが、実際には全然分かっていない)何かを語るのだ。
こうした状況に対して、自分自身としては一つの答えに近いような考えを持っている。それは、「当事者の視点を通すべき」ということだ。もっと言えば、自分なんかが書くよりも、例えば、あるクィア・コミュニティをテーマにするのであればそのコミュニティに属している方が、障碍をテーマにしたテキストであれば実際にその障碍を持っている方が語った言葉が、そのままに近い形で掲載されるというのが最もあるべき姿だと思っている。例えば、Cardi BとMegan Thee Stallionの「WAP」のリリックについて男性が批評するというのは端的に言って、間違っているとすら思ってしまう。映画「エターナルズ」がそうしたように、当事者以外の人物が何とか当事者に寄せようとするのではなく、当事者自身がそれを表現する。そうした動きがテキスト側にもあるべきだし、実際にそういう取り組みも進んでいる。
そもそも、マイノリティについてマジョリティがあーだこーだ語ること自体、随分と偉そうな行為だよなという感情がある。黒人の感情に白人が理解を示す、あるいは共感することの滑稽さというのはコメディでよく見るけど、そういう構図が色々なところで溢れ返っている。一切、「GUILTY GEAR」シリーズをプレイしたことが無いようなヘテロが、何故、ブリジットについて一言でも何かを言おうとする?
勿論、「無関心」であるべきではない。マジョリティ側がそういった作品に触れ、そこで今まで知らなかった何かを学ぶ。それを自分の中で咀嚼し、これまでの自らの行動を振り返って反省する。それ自体は極めて大事なことだ。自分自身も、様々な特権を持っていて、その多くにまだ気付いていないことがあって、でも感覚として「これでは良くないのではないか」と思って、マイノリティを描いた作品に触れている。そういう人は決して珍しくないだろう。
だが、何故それをSNSで語る必要がある?何故それを当事者をスルーしてメディアに出す必要がある?完全に正確な理解など出来るはずがない、そこに近づくことは出来たとしても、多くの場合は「当事者」になることはないのに、研究者であるわけでもないのに、何故たったの数時間だけ触れた情報から、何か「価値のあること」を語ろうとする?結局、それは自分の方を向いてもらおうとするための、個人のエゴなのではないのか?そして、そういう行為こそが、マジョリティの特権なのでは無いのか?安易な共感はむしろ単なるノイズになりうるのではないか?本当にやるべきことは、そういう作品の「広告に徹する」ことだけではないのか?勿論、何か問題を感じたら、それを指摘するのはあるべき姿だろう。だが、その問題においても自分自身は果たして「当事者」なのか?
結局、SNSの投稿によって自らの価値が判断される時代において、「正しくない」自分が怖いだけなんじゃないのか?
自分はよく「自分がやっているのは「批評」ではなくて「広告」」と言うけれど、だからこそ本気で「広告」に徹する必要がある。そのためには、自分が作り手を退くのも一つの手段だろう。「何を言うか」ではなく「何を言わないか」、もっと言えば「何を言って何を言わないと考えたか」。そればかりを最近は考えている。