burnout

かれこれ6、7年ほど細々とライターを続け、色々な浮き沈みもあったりしたのだけれど、なんとかやってきた。

しかし、先月の終わりくらいに漠然とした「燃え尽きた」という感覚が浮上し、「しばらく休んでも良いのではないだろうか」という考えが大きくなっていった。こういうことは今までも何度かあったのだが、今回はこれまでの経験と比較しても大きな空虚の感覚が、どっしりと頭を覆っている。

面白いもので、そう感じるようになって以来、特に仕事の依頼が来ない状況が続いている。こちらは特に何か言ったわけではないのだが、単純に何も起きていない。このまま行けば自然消滅しそうだ。もしかしたら、編集者とのコミュニケーションか、あるいは原稿の内容か、その両方かもしれないが、なにかネガティブなエネルギーが詰まっていたのかもしれない。

漠然とした焦りのようなものがないわけではないのだが、そもそも休みたがっていたということもあり、今のところは「まぁ、いいじゃないか」とのんびりしている。そもそも本業があるわけだし、周囲と比較する/されることや大量のノイズに溺れるのが嫌になってInstagramやX、Facebookを片っ端からやめていったような人間だ。現在の静寂は、ずっと前から他ならぬ自分自身が望んでいたものだったはずだ。金銭面に関しても、元々まったくもってそれだけで食える状態ではなく、むしろ書く時間をタイミーに置き換えた方がよっぽど効率良くお金を稼げるくらいだったので、危機感が微塵もない。

むしろ、今の状況において最も危険なのは「燃え尽きた」という感覚そのものにあるように思う。

3月中旬、当時の自分は必要以上にプレッシャーを抱えた状態で(なにせスーパーボウルのパフォーマンスに圧倒された直後だ)バッド・バニーの来日公演のライブレポートを書いていた。締切を破ることはなかったが、集めた資料や書くべき要点などを整理し、考察を重ね、伝えるべきことをまとめ、最終的には「面白い」と感じてもらえるような文章を書くというのは、当初高めに想定していたハードルよりもさらに高く、最終的には有給を使って本業の時間も転用することで何とか書ききった。だが、その時点でいくつかの仕事が残っていたので、残った体力を使ってそれらについても真剣に取り組んだ。すべてが終わる頃には屍のようになっていたが、翌週には本業でヘヴィな案件が待っていたし、さらにその後には実家に帰り、老後を迎えた両親と腹を割って話さなければならない要件があった。

うん、無理もない。そりゃ燃え尽きるはずである。こういう状況でもしっかりと仕事をこなすのがプロフェッショナルと言われているし、自分も遥か昔にリリー・フランキーの「東京タワー」で母親が亡くなった日にコラムの仕事をこなす主人公の姿に畏敬の念を抱いた覚えがある。だが、残念ながら自分はそちら側ではない。過去に無理をして何度か生死の境を彷徨う羽目になったので、また頑張る気はない。これは怠惰ではなく、生存戦略である。

だが、1ヶ月以上が経った今もまだ、変わることなく燃え尽きている。実を言えば、先月から再開したこのブログも、ある種のリハビリとして始めたものだ。元々文章を書くのは好きだった。では、なぜライターとしては燃え尽きてしまったのだろうか。そんなに仕事が多かったわけでもないし、大した文章を書いていたわけでもないはずだ。ぽっかりと空いた穴のようなものが、「◯◯について書きたい」という欲求を勢いよく吸い込んでしまう。

いわゆるミドルライフクライシスというやつなのか、あるいはSNS時代のコミュニケーションに疲れ切ったのか、原因はうまく特定できないけれど、このままでは良くないのではないかという焦燥感と、これもまた一つの変化として受け止めようという感覚が同居していて、何とも居心地が悪い。