ノイ村

Village of "NEU!"

恐らく自分はSNSと致命的に相性が悪く、どうしても何かを書こうとする時に自意識の存在が脳裏をよぎる。

例えばSpotifyでネットサーフィンのように音楽を聴き、「これは良いな」と思ったらSNSでシェアをしようと思う。これは現代における極めて自然な流れだ。先日、電車の中でなんとなく再生したBenny the Butcherの新作『Burden of Proof』は、Jay-ZやKanye Westのようなゼロ年代初期の縦ノリのヒップホップを強く好む自分にとって、「こういうラップ・アルバムを待ってました!」と喝采を送りたくなるほどストイックな作品で、思わず駅を乗り過ごすほどに興奮していた。

で、じゃあこれをシェアしようと思った時に、ふと疑問がよぎる。「別にシェアをする意味など無いのではないか」。

あらゆるものに対して諦めの感情を抱いてしまった自分は、シェアすることが自意識の消費であり、それに対する反応は内輪でしか存在しないことを知っている。長い時間を経て、SNSは内輪ノリでしかない事にすっかり気付いてしまっている。そしてSNSで行うシェアは、その内輪に対するアピールでしかない。「こう見られたい」、「これを聴く人だと思われたい」、「こういう意見を持つ人であることを示したい」。それは、自分が聴いた音楽が良いなと思ったこととは何ひとつ関係が無い。

そう考える事自体、極めて捻くれている。勿論異なるモチベーションで活動している人は沢山いる。だが、少なくとも今の自分は無邪気さを失っている。

「本当に届けたい人」にはSNS上では届かない、どころかむしろそれを遠ざける可能性すらある。というのは数年前に自分がnoteで書いた事だ。その背景には、音楽を語る人の多くが何かしらの”上からの目線”を持っていることに起因する。それはそもそもアーティストが魂を込めて作った音楽を第三者が語る時点で傲慢なのだから、ある意味では当たり前だと言える。そして、明らかに自分は影響力を求めている。自分がシェアした音楽をみんなが聴くことを求めている。誰かを納得させようと試みている。誰かの考えが間違っていると暗に示している。そして、音楽がその手段になるなんてことがあってはならない。

そのジレンマに陥ってから、SNS上で音楽を語る事自体が、そしてそれに知っている人から反応が返ってくる事すらも大きなストレスになっていた。自分にとっての理想が、「全く顔も名前も知らない誰かに届ける」ことなのだから、そう思うのもしょうがないかもしれない。だが、それはそれで極めて傲慢だし失礼だろう。

そしてある時遂に気付く。「音楽について、何も語らないと決めた方が、純粋にその音楽を深く楽しむことが出来る」ということに。”伝えよう”とした時点でそこには自意識が介入する。その自意識が邪魔でしょうがない。自分の中だけで閉じ込めた方が、結果として昔のようにちゃんと音楽をそのまま楽しむことが出来る。これは「語り手」になる可能性を捨てる、シンプルな敗北だ。そして今は、全く書き手としての未来は見えないが、少なくとも昔よりもずっと音楽を楽しむことが出来るようになった。